『rain』における「オブジェクトとしての字幕」という表現について

2014/02/08


“言語"を使ったゲームの説明と"雰囲気ゲー”

通常、ゲームの進行・ストーリーを説明するためには"言語"を使う。『ドラゴンクエスト』で村人に話しかければメッセージのウィンドウに村人の返答がテキストで表示されるし、最近のゲームではキャラクター同士が音声で会話をすることでイベントが進むものも珍しくない。

インベーダーゲームのような時代にはやりたくても出来なかった、このような言語を使った表現は、ハードの性能が上がるにしたがって、徐々に高度に出来るようになっていった。感情を込めたキャラクターのセリフはイベントシーンを盛り上げる。『Skyrim(スカイリム)』ではゲームの本筋とは関係の無い膨大な書物をアイテムとして用意し、そこに書かれた文章や物語はゲームの世界観を何層にも濃いものにしてくれた。

一方で、そういったゲーム内の"言語"を排除することで世界観をつくりあげる作品もある。代表的なものは『ICO』『ワンダと巨像』『風ノ旅ビト』といった、俗に"雰囲気ゲー"と言われる作品だ。これらのゲームでは、技術的にではなく、あえて文字や音声をほとんど使っていない。『風ノ旅ビト』にいたってはゲーム中に一切の文字も音声も使われていない。

言語の演出が高度にできるようになってきた弊害として、主人公がプレイヤーの考えとは違う会話をすることや、画面下に表示される字幕によって行動を指示されることで、上手く演出をしないとプレイヤーがゲームの世界から一歩引いてしまい没入感が失われてしまうという問題が起こり始めていた。

“雰囲気ゲー"ではこの問題に対し、言語での表現をあえて始めから無くすことで想像の余地を用意し、ゲームへの没入に繋げるというアプローチをした。結果的にそれは成功し、1つのジャンルを確立するまでになった。

言語を使った"雰囲気ゲー” 『rain』

『rain』のPVを見た時、多くの人は"雰囲気ゲー"を想像したと思う。もちろん自分も想像した。そして結果的に『rain』は雰囲気ゲーだった。しかし『rain』は言語を大量に使うという点で、これまでの"雰囲気ゲー"とは違ったゲームだった。

まず、言語を使うといっても『rain』で使われるのは「字幕」のみ。透明になった主人公の少年と少女は声を発することができない設定なので音声としての言語は無く、会話をするシーンも無い。少女と少年の意思の疎通は雨によって浮かび上がった身体を使って身振り手振りによって行う。

その代わりとして、少年や少女の状況が字幕で表現される。例えば、少年が自分も透明になっていることに気づくシーンでは、少年の動作に合わせて「恐る恐るかざした手が 空中に浮かびあがる」「少年は理解した 自分も姿が消えている事を」といったように字幕が表示される。また、「あそこまで走るしかなさそうだ」といった謎解きのヒントとしても字幕が表示されることもある。

そして、『rain』の独特なところはその字幕がオブジェクトとして使われているところだ。一般的なゲームの字幕は画面の下に決められた字幕用の場所に表示されるけれど、『rain』の字幕は画面内のいたるところに主人公の動きに合わせて現れる。少女を追いかけるシーンでは、さっきまで少女がいた場所に辿り着くと、その場所に「少女はもういなかった」といった字幕が現れる。それは、ゲーム画面の上のレイヤーに表示される字幕ではなく、ゲームの中の世界の椅子やハシゴといったオブジェクトと同じような扱いで現れる。

“オブジェクトとしての字幕"であること

「字幕エリアの字幕」ではなく「オブジェクトの字幕」になっている最も重要な点は、ゲームの進行を一切邪魔しないことだ。オブジェクトとして表示される字幕は、それが表示されるたびにゲームが止まるわけでもなく、○ボタンで読み進める必要もない。

世界に没入するために主人公に自分を重ねるとした場合、スティック操作で主人公が動き、ジャンプボタンで主人公がジャンプすることは「コントローラー(を操作する自分)=主人公」の状態だ。しかし、ボタンを押して「字幕エリアの字幕」を読み進めた場合、それは主人公が行っていることではなくプレイヤーの自分が行っていることであり「コントローラー(を動作する自分)=現実の自分」の状態だ。つまり、コントローラーの操作方法によってその主体が頻繁に「主人公」と「現実の自分」と入れ替わってしまう。

しかし、『rain』のような「オブジェクトの字幕」であれば、文字を読み進めるために行うことは主人公をその場所に動かすことだけで、そういった矛盾は起こらず、コントローラーの主体は常に「主人公」でいられる。それは、世界への没入感を高めることができる。非常に細かい部分だけれど、"雰囲気ゲー"にとってこのようにゲームの中に「現実の自分」をどこまで出さないことができるかを考えることはは重要な点だ。

システム面から見た"オブジェクトとしての字幕”

“オブジェクトとしての字幕"はシステム面から見ても『rain』という雰囲気ゲーに合っている。

プレイヤーの視点は常に主人公にあるので、主人公の行動に合わせてその付近に字幕が現れると常に目に入って見逃すことがない。字幕エリアと違って、次のメッセージがあるからといって消えることがないので画面内に複数の字幕を存在させることもできる。

例えば、主人公がひたすら画面の左から右へ駆け抜けるシーンでは壁に次々と字幕オブジェクトが現れる。それらは全て主人公の動きを目で追いながら文字を読むことができた。これがもし画面下の字幕エリアに表示されていたら、主人公の動きを追って見逃していたか、字幕の入れ替えが早過ぎて見逃していたかもしれない。

さらに、字幕は道案内の役割もしてくれる。『rain』は基本的に1本道につくられているものの、街を舞台にしていることもあり、どちらの方向に進むべきか若干迷うシーンもある。そういったとき、進んだ先にオブジェクトの字幕が出ることでそちらが正しいルートと認識できるので、ストレス無くゲームを進行することができた。

演出としての"オブジェクトとしての字幕”

オブジェクトとしての字幕は1つの演出の手法としても素晴らしかった。文言自体はもちろん、明朝体のフォントや文言の切り方、それを出すタイミングが練られていた。中でも一番印象に残っているのはゲーム開始時に『rain』というロゴが表示された場面だ。

ゲームの冒頭で、謎の夜の街についたばかりの少年が怪物から逃げながら夜の街の"入り口"へ進むシーン。1つ段差を降りると 「sony computer entertainment」のロゴが表示され、1つ段差を降りると開発の「アクワイア」のロゴが表示される。さらに進むと『月の光』が流れ始め、少年が画面の奥へ向かいつつ『rain』のロゴが表示される。全てのロゴがゲーム内のオブジェとして表示されるという新しい表現への驚きと、表示や音楽が挿入されるタイミングが完璧に合い、ゲームへの期待感が一気に高まった。こんなにセンスのあるゲームの導入シーンは久しぶりだった。

“雰囲気ゲー"の可能性を見せてくれた『rain』

"言語"を排除することが定石になりつつあった"雰囲気ゲー"に対し、『rain』は言語をふんだんに使いつつも、オブジェクトとして存在させることで、プレイヤーの邪魔をしないようにし、そしてゲームの雰囲気を存分に楽しむことの後押しまでしてくれた。

言語を使っても"雰囲気ゲー"をつくれることを証明し、まだ歴史の浅い"雰囲気ゲー"の未来を切り開いてくれたように思う。


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