10年以上過ぎた今、ポケモン金銀の思い出を語る

2013/04/06


1996年2月27日、ゲームボーイ用ソフト『ポケットモンスター赤・緑』が発売。当時小学生だった僕は、少し遅れて赤い色のゲームボーイポケットと共に”赤”を買ってもらった。 赤緑に関しては”普通”にプレイしていた。好きなポケモンに好きな技マシンを使って育てた。四天王を倒すとセーブデータを消して、今度は違うポケモンでパーティーを組みながら何度もストーリーをクリアした。

その頃、渡辺徹司会のスーパーマリオスタジアムという番組が放送されていて、番組に応募した子ども同士がポケモンの対戦をするコーナーがあった。ふぶき、かげぶんしん、きりさく…。テレビに出ている子どもに憧れ、番組を見てはセーブデータを消し、努力値や個体値も知らないままサンダースを育てたしラッタも育てた。赤緑はそうして遊んでいた。(その”子ども達”には後に出会うことになる)

ポケモンの次回作が出る、という話はその頃からあった。僕たち子どもはポケモンの新作に待ち焦がれていたけれど、延期が続きなかなか発売されることは無かった。 そして、赤緑の発売から3年以上過ぎた1999年11月21日、『ポケットモンスター 金・銀』が発売された。


発売当初、金銀は品薄だった。予約をしていなくてなかなか手に入らなかったので、おもちゃ屋の友達に頼んで次の入荷分の予約をして、友達2人に少し遅れてソフトを手に入れた。

このとき手に入れたのは”金”。当時、ルギアがパッケージの銀が人気だった。僕もどちらかといえば銀が欲しかったけど、先に買っていた友達2人が銀だったのでしぶしぶ金にした。 はじめに選ぶポケモンも、友達2人がヒノアラシとワニノコだったのでチコリータにした。赤緑では、はじめにもらえる御三家は1人一匹しかいない貴重なキャラクターだったけど、金銀からは”タマゴ”のシステムが追加され、伝説のポケモン以外は、同じキャラクターの子どもをつくって友達にあげることができるようになったからだ。

そうして僕はチコリータで金をプレイした。ハヤトのピジョンの”どろかけ”に泣かされ、アカネのミルタンクの”ころがる”に全滅させられた。このときも普通のプレイだったれど、前作の経験から技マシンは使わずにとっておいた。

金銀のストーリーで一番心に残っていることと言えば、やはりカントー地方の存在だ。

前作の赤緑の世界はカントー地方が舞台で、金銀は赤緑から”3年後”のジョウト地方が舞台。 ジョウト地方を巡り、四天王を倒してチャンピオンとなった後、それまで進めなかった新たな場所へ行けるようになる。クリア後にしか会えない珍しいポケモンでもいるのかと思って進んでいると、あるところでゲーム内のキャラクターに呼び止められてこう言われる。

「きみは いま! カントーちほう への だいいっぽを ふみだした!」

カントー地方?まさかと思いながら進むとそこには確かにカントー地方があった。前作から3年たったカントー地方が、前作から3歳年をとった僕らの目の前に現れた。 ドラクエ3のアレフガルドしかり、旧作の世界やキャラクターが突如現れ、世界が繋がっていることがわかる演出は心を掴む。ユーザの思い入れと製作者の想いがあればなおさらだ。

カントー地方へ行くと、タケシが、カスミが、マチスがジムリーダーとして存在していて、戦うことができた。そして、トキワジムのジムリーダーがグリーンであることにもまた感動した。 サカキの穴を埋める形で、レッドに敗れたグリーンが故郷近くのトキワジムのリーダーを務めている。ゲーム内ではそこまでの詳細は語られないけれど、僕らにはその物語が十分想像できた。

3年待った金銀は僕らの期待に答えてくれる名作だった。


ストーリーをクリアした僕は、ある日、友達と対戦をした。お互い、ストーリーで使ったポケモンや伝説のポケモンをかき集めてつくったパーティーでの対戦だ。そこで友達に敗けた。そこに力の差があったわけでは無いけれど、とにかく敗けて悔しかった。思えば、ここで勝っていたならば、ポケモンの世界に踏み込むことは無かったのかもしれない。

友達に敗けた同じころ、インターネットに出会った。Yahooのカテゴリ検索、キリ番報告、勝手に流れるMIDI、cgiのテキストチャット、ネスケ、テレホーダイ、掲示板、無断リンク禁止…そんな単語が溢れている時代のインターネットだった。

まず、種族値、個体値、努力値を知った。今でこそ小学生でも知っているけれど、当時の中高生でインターネットをしている人なんてクラスに数えるほどしかいなかった。パーティー鑑定掲示板を見て、6匹のパーティーは属性や技を考慮しながら考えるものだと知った。攻略本には全く載っていない情報がインターネット上には山のようにあり、沢山のサイトを見て回った。(あまりにネットをやりすぎたため、従量課金からISDNに変えてもらった)

情報を得た次にやることはコミュニケーション。当時、ネット上のコミュニケーションの主流は掲示板だった。今とは違い、多くの人はネット上に”自分の場所”を持っていなかった。TwitterやFacebookのようなSNSは無かったし、ブログも無かったから、自分が中心となって情報を発信する場所は無かった。サイトをつくるのは一部の人だったから、多くの人は掲示板に集まってそこを拠点としていた。「あの掲示板にいる人」「あのサイトの管理人と仲の良い人」といったように、”人”を認識する基準は掲示板(サイト)だった。

僕も、対戦について取り扱っているサイトを探し、掲示板のやり取りを見た。そして、とても緊張しながらパーティー鑑定依頼の投稿を初めてしたことを覚えている。

掲示板を見るのは楽しかった。今、情報は向こうからやってくるものになったけれど、当時は取りにいくものだった。強そうな人たちのいる掲示板をお気に入りに入れ、毎日新しい話題が増えていないかワクワクしながら見にいった。 ある程度常連となる場所ができて知り合いも増えたところで自分のサイトをつくった。僕はドーブルというマイナーなキャラを気に入っていて、そいつについての話をじっくりしたい時があり、人のサイトであまりに長いスレッドをつくるのも悪いな、と思ったのがきっかけだったと思う。 名前も忘れたビルダーと「一週間でできるホームページ」といった本を片手に、文字と画像を配置した。JavaScriptやCGIなんて全くわからなかったけれど、とりあえず解凍して置けという指示に従って、なんとか掲示板も設置できた。

個人サイトの掲示板は喫茶店のようなイメージだった。マスター(管理人)がいてお客が来る。お客とマスターが話し、お客同士が話す。人気のお店には人が沢山くるし、常連もできる。 自分のサイトは、上に書いたような動機もあって、知り合い中心の居心地の良い場所にしようと思っていた。ただ、あまり身内臭がして排他的になると新しい人が入りにくいので、常連が楽しく話している時でも、店に来たお客さんには丁寧に接客するような、そんな運用をするように心がけていた。程よく話題が流れ、新しい人も訪れ、悪くない雰囲気で運用できていたんじゃないかと思う。

僕は、金銀で一旦ポケモンから離れたけれど、ルビサファとダイパの時代にも結構頑張ってパーティーをつくったことがある。そのときもネット上で情報を探したけれど、そのときは皆ブログを使っていたし、twitterを使っていた。そして、掲示板で意見を交わし合うといった交流はほとんど見ることが無かった。

ブログ、SNSによって誰もが情報を発信できるようになった。アパートのそれぞれの部屋に人が住んでいて、どの部屋にも自由に出入りができるし部屋の住人と話もできるようになった。皆が部屋から出てこないので、人の集まる”場”は無くなってしまった。自分が誰かと繋がることは簡単になったけれど、誰かと誰かが繋がっていることを知るのは少し難しくなった。

場が無くなってしまったのは残念だと思っている。場がないと議論が起こりにくい。twitter上でも議論は起こるけれど、1対多だったりすることが多いし、そもそも複数人で意見を交わし合うためのツールではない。 ブログのコメントというのも難しい。ブログは意見を交換する場ではないという意識の人も多く、否定的な意見が好まれない空気もある。管理人-閲覧者達という構図もあり、管理人と閲覧者複数人で意見が飛び交うことは難しいし、もっと言えば閲覧者同士で議論が起こることがあり得ない。サイトの掲示板に誰かがスレッドをつくり、複数の人が入って意見を交わし合うあの光景を結局見ることができなかった。

しかし、ポケモンに関していえば、今の時代議論はあまり必要とされていないのかもしれない。金銀の時代、対戦するには実際に相手と向かい合って通信ケーブルをさす必要があった。対戦する機会は限られていた。だからこそ、対戦しない間の考察が重要で、考察のための議論が必要だった。 今では家にいながらwi-fiでネット対戦ができる。友達と対戦できるし、世界の知らない誰かとも対戦ができる。ネット上に散らばる情報を集めてパーティーをつくり、実践すればすぐに結果は出る。大事なのは情報と結果であって、あのころより議論の重要性は薄くなったのかもしれない。そういう時代になった。


多くの人が集まる掲示板で、ある時オフ会が企画された。オフ会なんて行ったこともないし珍しいものだったから、変な人が来てさらわれるんじゃないかという不安もあったけれど、育てたポケモンで対戦する初めての機会だから参加した。 公共スペースの和室のような場所だったと思う。20人か30人くらいの人が集まって対戦した。自分で考えたパーティーで勝てたときはとても嬉しかったし、何よりいつも掲示板で見かけたり話したりしていた人と会うのは新鮮で楽しかった。

2000年の暮れ、「ニンテンドウカップ2000」という公式大会が開催された。当時の公式大会の当選率は今では考えられない程低かった。全国で優勝するのに一番大事なことは当選する運だと言えるくらい低かった。 僕は残念なことに落選したけれど、会場には誰でも入ることができたし、会場に行けば発売前のポケモンスタジアム金銀を試遊することができたし、その会場に掲示板の知り合いも行くようだったので、11月3日に品川インターシティホールへ向かった。

会場では、知り合いの知り合いくらいの当選していた人を応援しながら、試遊台で遊び、初めて会う人達と話をした。 今の大会では殆どの人が何らかの型と言える、しっかりとしたパーティーを組んでいるけれど、インターネットが今ほど普及していなかった当時は限られた人しか情報を持っていなかったので、適当な伝説+間に合わせ数匹みたいなパーティーが多かった。だから、極端なことを言えば個体値と努力値を知っている、インターネットをしている人であれば順当に勝ち上がれた。応援していた人も順当に勝ち上がっていったけれど、同じくインターネットをしている人と当たり敗けてしまった。

ちなみに、ここ会場では、僕たちのグループの他に、大きく二つのネット上のグループがあり、負かした相手はそのグループにいた。後にオフ会で全てのグループの人達は出会った。(それくらい、世界は狭かった)


大会から一月後の2000年12月14日、ゲームボーイカラー用のソフト「ポケットモンスター クリスタル」(クリスタル)と、ニンテンドー64用ソフト「ポケモンスタジアム金銀」(ポケスタ金銀)が発売された。 クリスタルは金銀のマイナーチェンジバージョン。基本的には同じだけど、ストーリーが少し追加されたり、金銀とは違った技が覚えられたりした。特に、10まんボルトやかえんほうしゃを今まで覚えられなかったポケモンに覚えさせてくれる”おしえオヤジ”の存在は、対戦に力をいれていた僕らに衝撃を与えた。

ポケスタ金銀は、64にゲームボーイのソフトをつなぐことで、テレビの画面上で、3Dになったポケモンで、実況つきで、対戦が楽しめるソフト。 3Dになったポケモンは今見ても古さを感じさせないほど良くデフォルメされていて、わざを出す動きも特徴を捉えている。ガラガラのじしん、サンダーの10まんボルト、ヘラクロスのメガホーン…。当時の人なら効果音付きで頭の中で動きが再生できると思う。 操作感も良い。ポケモンやわざの選択は一瞬で行える。 間も良い。攻撃モーション、わざの演出、くらった相手のモーションは、どれも長すぎずテンポが良い。対戦するならゲームボーイではなく64のポケスタでやりたい、と思わせてくれた。

ゲーム内にはCPUと戦うモードもあり、勝ち抜くことでドードリオゲームボーイという機能が使えるようになる。これは、64のポケスタ金銀上でゲームボーイの金銀のソフトを動かすことができ、更にゲームスピードを三倍にできるという機能。 対戦用のポケモンを育てる為にはアンノーンというポケモンをひたすら倒す作業が必要で(通称アンノーン狩り)、その作業効率を何倍にも高めてくれる嬉しい機能だった。 他にも、攻略本ばりの情報がある図鑑モードや、ポケモンのキャラクターを題材にした良質なミニゲームなどもあり、製作者の想いが感じられた。 このソフト以前にあったポケスタ1,2、このソフト以後に出たポケモンコロシアム、ポケモンバトルレボリューションと比べても、1番ボリュームがあって良いソフトだと思う。(後に投げ売りされていたのは悲しかった)

クリスタルの話に戻ると、クリスタルにはもう一つ「モバイル通信」という目玉機能があった。専用のケーブルでゲームボーイと携帯電話をつなぐことで、携帯電話の回線を使って離れた人と通信・対戦ができる機能だ。通信の際には携帯電話の通信料がかかるけど、それでも離れた人と対戦できるのは画期的だった。僕も掲示板上でしか交流のない関西の人達と、モバイル通信を使って初めて対戦し、未来を感じた。 DSのタイトルからはwi-fiを使って通信料を気にせず、世界中の人と通信ができる。技術の進歩は凄い。

年が明けて2001年。春から夏にかけて、公式大会「モバイルカップ2001」が開催された。 この大会は参加者同士で対戦するのではなく、モバイルアダプタを使ってモバイル通信で任天堂のスタッフと対戦する珍しい大会だった。スタッフを倒した参加者には次の日程が告知され、別のスタッフと対戦する。それを5回繰り返し、全て勝ち抜いた参加者はその年のニンテンドウスペースワールドに招待され、そこで参加者同士が戦って優勝を決める。 また、ルールも特殊だった。レベル50〜55のポケモンを6匹用意し、相手の6匹を見て3匹を選択する通常のシングルルールではなく、レベル30のポケモンを3匹用意し、相手の3匹も分からないまま出たとこ勝負で3vs3を行うルールだった。更に、3匹は被っていても問題なかった。カビゴン×3もアリだった。

僕はこの大会に運良く当選した。自分の3匹に何を使っていたか良く覚えていない(おそらくカビゴンは入っていただろう)。1回戦、2回戦はスタッフの使うポケモンも弱かったが、回を重ねるごとに強くなっていった。 5回戦の日は土曜日だった。もう時効だから言うけど、僕は学校に行かずに途中の駅のマクドナルドで時間をつぶしながら電話を待っていた。対戦開始のスタッフからの電話が来る時間はざっくりとしか伝えて貰えないので、授業中に電話がきて対戦できないから失格、ということだけは避けたかった。無事に、と言って良いのかわからないが、かかってきた電話に出ることができ、5回戦も勝つことができた。これでスペースワールドに出れると思うと胸が高まり、とても嬉しかった。

5回戦から数日後に次の内容の連絡が来た。スペースワールドの決勝大会に想定していた人数より5回戦を勝ち抜いた人が多いため6回戦を行う。6回戦も任天堂スタッフとの対戦。決勝大会への参加者は、6回戦を勝った人の中から勝利するまでのターン数が少なかった順に選ばれる。スペースワールドへの切符を手に入れるには、ここをくぐり抜けなくてはいけなかった。

当時、僕の周りには僕を含めて5回戦を勝ち残った参加者が数人いた。誰もが最後の「ターン数が少なかった順」というルールをどう切り抜けるか考えた。3vs3の勝負は最短で3ターンで終わる。カビゴンでのろいを積むような戦法はターンがかかりすぎるので駄目だ。 友人は「大爆発→大爆発→一撃必殺」の3ターン戦法をとった。つるぎのまいをしたガラガラを使う人もいた。僕はいろいろ考えた結果、ドーブルを3匹使うことにした。

サイトをつくるきっかけにもなったこのドーブルというキャラは、能力は低いけれど全てのわざを使うことができるというトリッキーなキャラ。何をしてくるのか分からないのが恐ろしく、上手く”はまる”と使っていてとても楽しい。 もともと、決勝大会ではドーブル3匹を使おうと思っていた。大会はお祭りのようなものだと考えていたので、会場も盛り上がると思ったし、僕の代名詞のようなキャラでもあった。勝つ可能性も充分に持っていた。 そんな決勝用に育てていたドーブル3匹だったが、もしかしたらここで終わるかもしれないと思ったので使うことにした。ニックネームを「ありがとう」「ござい」「ました」にした。

結果を言うと、対戦に勝つことはできたけれど決勝大会に出ることはできなかった。対戦内容はかすかに覚えている。初め、ドーブルvsガラガラという状況になった。1ターン目、僕はみちづれを選択し、ガラガラはまもるを選択。2ターン、もう一度みちづれを選択しガラガラはじしんで2匹倒れる。その後は覚えていないけれど、みちづれとハサミギロチンを使ってかなり少ないターンで勝つことができた。けれど、決勝大会には進むことができなかった。 後で決勝大会へ出た人のターン数を聞いたところ、僕より1ターン少なかった。あと1ターンの差だった。あのガラガラが1ターン目にまもるを選ばなければ…と思ったこともあったけれど、ドーブル3匹を使って勝つことができたので、今となっては満足だ。

2001年8月26日。モバイルカップ2001の決勝大会が行われる任天堂スペースワールドへ向かった。ステージで行う予定だった決勝大会は何らかの都合により、来場者の目には触れることのない会場の一室で行われることになった。決勝大会の参加者以外は入ることができなかった会場に、出場者の一人の好意で入れてもらい、決勝大会を生で見ることができた。決勝大会に自分が出場することはできなかったが、初めて参加した公式大会の最後を見ることができて良かった。モバイルカップ2001以降、金銀の公式大会は開催されず、この大会が金銀最後の公式大会となった。


モバイルカップが終わりポケモンの対戦欲は収まっていた。流石に発売されて2年近く経つので少し飽き始めていた。 初めの頃のオフ会では、対戦がしたかったので朝から夕方まで参加者全員で総当たり戦をしていたが、この頃は全員参加のトーナメントをして、後は各々自由に過ごすという形式のオフ会が増えていた。オフ会に行く目的は、対戦から人に会うことへ変わっていた。トーナメントで負ければ1回しか対戦できないけれど、それで良かった。 スマブラの影響もある。実は、ポケモンのトーナメントが終わった後は皆で64のスマブラをやっていた。ここまでくると、ポケモンのオフ会なのかスマブラのオフ会なのかわからない。更に11月にはゲームキューブ版のスマブラDXが発売され、皆のスマブラ熱は加速していった。スマブラDXをやるだけの集まりも何度もあった。

こうして2001年末から2002年にかけて金銀から少しずつ離れていき、2003年3月19日、金銀の次回作にあたるルビー・サファイアが発売。それまで育てていた金銀のカートリッジにいるポケモン達は、ルビー・サファイアに移動させることはできなかった。 赤緑から金銀へは移動できたし、ルビー・サファイア以降も全て次回作に移動させることができる。ポケモンの歴史の中で金銀からルビー・サファイアだけがポケモンを移動させることが唯一できない。 ルビー・サファイアの発売される前から金銀とは距離をおいていたけれど、この仕様により実質的にも金銀は終了した。


どんなゲームにもいつかは終わりが来る。ゲームが無くなればそのゲームに費やした時間は無駄になる。けれど、思い出やそこで生まれた繋がりは消えない。金銀で知り合った人とは10年以上たった今でも交流がある。 あるゲームを思い出したときに「やっていて良かった」と思えるものであれば、それはきっと良いゲームだ。そして僕は「ポケットモンスター金銀」に対してそう思っている。

※1つ、当時のポケモン対戦において抜けているものがあります。そう、ジム城です。当然僕も通っていました。しかし、ジム城の歴史はゴールドさんが素敵にまとめて下さっているので、そちらをご覧ください。


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