2025年9月
2025年9月。木曜日に出社してオンラインMTGに出ているときに母から電話があった。病院の先生から「容態が悪化しているので、来れるなら来たほうがよい」といった連絡があったそうで、急遽休みをもらって病院へ向かった。
半年前くらいに呼吸が苦しいことで入院し、そこから入退院を繰り返していた。癌を含めたいくつかの症状で、だんだんと体が痩せてきていたので、突然のことでは無かった。
病室には母と兄がすでにいた。病室の父は同じ週の火曜日に見舞いに行った時と同じように人工呼吸器がつけられた状態だった。目は開いているが自分を見ても反応はなく、声もどこまで届いているのかは分からなかった。
ただ、この時点ではそこまで緊急事態というほどでなかったので、ベッド脇に座りながら手を握ったり声をかけたりしながら見守っていた。しばらくして、弟と、兄の奥さん・子供も面会にきて父の周りを取り囲みながら時間を過ごした。この日は東京に急な大雨や雷があり。窓の外に突然の稲光がさすこともある日だった。
結果的に、この木曜日は緊急で集まったとはいえ穏やかな1日だった。ベッドに寝た父を中心に、お盆や年末に実家に集まったときのような雑談をしていて暗い雰囲気は全然無かった。このときの父にどこまでの意識があったのかはわからないが、きっと喜んでいたと思う。
夕方になって容態は良いとも悪いとも言えない状態だったので一度解散することになった。それぞれ緊急で駆けつけていたため、母と自分は実家へ、兄一家は一旦全員家に帰り兄だけ荷物を整理して実家へ、弟は病室に簡易ベッドを出してもらって病室に泊まり。ということになった。
母と実家に帰って夕飯を食べていると兄から連絡があり、やっぱり兄も病室で泊まるということになり、病室と実家で2人ずつに分かれてこの日は終わった。
翌朝。兄と弟からの病室の様子の連絡では特に変わりはなく、若干ではあるが容態に関わる血圧や二酸化炭素の数値は良くなっているとのことだった。
母とタクシーで病室へ向かって合流。弟は一度家に帰るということで、兄と母と3人で再び病室で過ごした。担当の先生からの話を聞いたり、昼食を交代でとったりしながら、この日も前の日と同じように過ごした。
16時を過ぎ、自分は一旦家に帰ることにした。その時点では前日と同じような状況だったので、母も「ずっと全員で見ているわけにもいかないから。何かあれば連絡する」と言っていた。
自分の奥さんと子供の状況も心配だったし、週末に子供の習い事の重要な予定もあった。
18:30。最寄りの駅について奥さんに駅前のスーパーで買っていくものは何かないかと電話。なにもないということで家へ向かおうと駅を出ようとした丁度その時に兄から「容態が急変した」との電話があった。
今ついたばっかり...と思いつつもそのまま再び改札に入り、いま来た道を引き返した。
そして途中の乗り換えの駅で歩いているときに再び兄から電話があった。さっき亡くなったという連絡で、兄の声は震えていた。「連絡ありがとう。そっちにいくね」と伝えて電話を切り、そのまま向かった。
病院への最寄りの駅につき、病院まで歩く20分位の間に、奥さんと、奥さんのご両親へ電話をして父のことを伝えた。奥さんはまだ実感のわかない感じだったのと、自分がこの2日いなくて疲労が溜まっている感じで、それはそれで心配だった。
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病院につき病室へ向かうと、その手前のロビーのようなところに母達の姿があった。父についていた器具などを取るために一旦病室から出ているとのことだった。父の死の瞬間はどのような状況だったのかわからないが、この時点ではみんな落ち着いていて、自分が夕方帰る前に病室で雑談をしていたときのような空気だった。
しばらくして病室に呼ばれて皆で入った。そこには器具などが取り外された状態の父が寝ていて、じわりと涙がでた。ただ、半年前から徐々に弱っていったことで、ある程度心の準備ができていたのか、はたまた、この2日間ずっと近くにいたからなのか、そこまでの急激な悲しみは無かった。
改めて呼吸器など外れた顔を見て、ずいぶんとおじいさんになったな、とも思った。「みてね」のアプリにある数年前の写真と比べると20歳近く歳をとったように見えた。この半年の変化をみていると、人間は食事と運動ができなくなると一気に変わってしまうのだなと思う。
母は最期まで明るかった。気丈に振る舞っているのか、もとからの性格なのかは分からないが、大泣きすることもなく「(装置がはずれて)楽になって良かったねー」などと言っていた。
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病院側の準備ができて、病院の地下の階にある霊安室に運ぶことになった。霊安室への順路には落ち葉のようなマークが目印になっていた。
ここからは相手は病院の人から葬儀の会社の人に代わり、悲しい感じの空気は一旦無くなり、葬儀の決めの話が一気に始まった。通夜と告別式はいつか、誰を呼ぶか、お坊さん呼ぶか、宗派は何にするか、戒名はするか、棺と飾り付けのグレードはどれにするか、告別式後の食事は何にするか、etc...
自分は結婚式も仏滅を選んだし、家建てる時の地鎮祭もしなかったタイプなので最低限で良いと思ったけど、意外と兄や弟はしっかりやりたいタイプだったのでお坊さんも呼ぶことになったし、飾り付けも下から2番目にすることになった。
諸々込みこみで通夜〜葬儀は200万円弱かかった。結構かかるなと思いつつ、そんなもんなのかな、とも思った。見積もりだけ見ると、花がひとつ1.5万円だとか、棺が8万円だとか、かなり割高に見える。ただ、見積もりにはそういった目に見えるものしか書かれておらず、その裏側にいる人件費、輸送費、場所代などのコストのことは書かれていない。なので、そういうの全部いれて、そこに利益も乗せたら、高い気もしないでもないけど、こんなものなのかな、と。(同じことは結婚式のときも思った。あの数カ月毎週打ち合わせしたあの人の人件費も入っていて、その上で企業として利益を出すなら滅茶苦茶な金額ではないな、と)
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葬儀の日程・内容決めや親戚への連絡などをひとしきり済ませると、最後に葬儀場へ父を送る車を見送った。外は真っ暗で霧雨が降っていて、母が転ばないように腕を貸し、家族と葬儀会社の人と病院の人と、車が見えなくなるまで立っていた。「行ってしまったな…」と思った。
病院の人と葬儀の人と挨拶をし、この日にやることは終わった。夕方から何も食べていなかったので病院内のローソンで軽食を買い、兄の運転する車に皆で乗って実家へと向かった。このとき自分の中で、ドラマ『ブラッシュアップ・ライフ』の第何話目かのラストの家族で車に乗るシーンが浮かんだ。ドラマのシーンでは、主人公が忙しい日々の中で久しぶりに実家に帰り、父親の誕生を祝ったあとにとんぼ返りするとき、家族全員乗った車で主人公を駅まで送るという幸せなシーンだった。
この夜の車はそういった幸せ100%な状況ではなかったけれど、久しぶりに家族みんなが同じ車に乗り、父の死という出来事を通して家族が一つの同じことをし、それが一段落した達成感みたいなものを持ちながら家路につくときだった。1日の出来事を細かいシーンにわけて考えるならば、あの夜の車は幸せなシーンだったと思う。
実家についたときは0時を過ぎていた。買っておいた軽食を食べ終わると兄夫婦は家に帰り、自分と弟は実家に泊まった。ベッドに横になったのは夜の3時だった。
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翌土曜日の朝。お通夜は日曜・告別式は月曜、という予定で土曜日に緊急でやるべきことも無かったため、自分は家に帰った。昼頃に再び最寄り駅につき、駅前のたこ焼きを買って帰った。家を開けたのは2日間だったけれど、随分久しぶりに家族を見た気がしてホッとした。自分がいない間も家では大きなトラブルは無かったようでそこもホッとした。
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土日を家で過ごし、告別式があったのは月曜日。祖父母の葬式などは経験しているので、一通りの流れはわかっていたし、その通りに進んだ。棺に花や思い出の品物を入れるシーンと、火葬直前のシーンではみんな泣いていた。子ども達は最初はあまりわかっていなかったようだけど、小四の上の子は周りの雰囲気を感じたのか泣いていた。年長の下の子はまだ分かっていないようで、棺の中の父を怖がっていた。棺には、前の日にそれぞれに描いてもらったお寿司(父の好物)の絵を入れた。
会場で皆で昼食を食べ、弟や兄一家と実家に帰り、翌日以降にやらなければいけないことを確認した。役所に届け出をだしたり、契約者を母に変えたり、不要なサービスを解約したり、部屋の整理をしたりと、色々やることはある。その週は兄弟交代で実家にいき、それぞれの得意なことを手伝った。自分は父の残していたパスワードの書かれた手帳を元に、片っ端から各サービスの手続きをし、急ぎやらなければいけないことは終わらせた。一連のことは、ここで一区切りがついた。
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全体を通して、子供(ここでいう子供は父や母にとっての子供=自分を含めた兄弟のこと)がいて良かっただろうな、と思った。半年前に緊急で入院したときから、もし母ひとりだったら肉体的にも精神的にも大変だっただろう。
車庫の掃除、車の売却、各種サービスの解約や変更など、死後必要な作業も各兄弟が定期的に実家に帰って得意な分野を担当している。これも母一人だったら無理だっただろう。
また、今まで家族のLINEグループは無かったけど、これを機にできた母と三兄弟のグループには、今も母が毎朝晩、生存報告のためにおはようとおやすみを送り、自分ら子どもたちが返事をしている。