ゲーミフィケーションとゲームの相性は良く無いんじゃないかという話

2013/02/11


最近良く言われるゲーミフィケーションという言葉になんか引っかかる。ソーシャルゲーム関連の記事とかスライドで取り上げられているゲーミフィケーションの話。

まずズレてるって思うのは、ゲーミフィケーションはゲームの面白さの本質ではないということ。例えばゲーミフィケーションの1つに「連続してプレイ(ログイン)するとボーナスがつくので毎日ゲームがしたくなる」っていうのがあるんだけど、そうじゃない。本当に面白いゲームは、ボーナスなんてつかなくったって毎日遊びたくなるものではないか。

ゲーミフィケーションは「熱中のさせ方」を語っている。悪い言葉を使えば「射幸心の煽り方」。実績(バッヂ)もそうだし、ランキングもそう。 ソーシャルゲームのゲーミフィケーションの使い方は確かに上手いと思う。熱中してしまう仕組みが一重二重に張り巡らさせてる。でもそれは自分が従来のゲームに感じてきた面白さとは違う。パズドラは良く出来たサービスだけど、パズルゲームとして考えると頭を使う要素がゲームに与える影響が少なすぎる。

今までゲームを何千時間とプレイしてきた上で、ゲームは娯楽の1つで本来やらなくても良いもの。でも、その中にはいい音楽を聴くような、感動する映画を観るような、素晴らしい体験をさせてくれるものがあって、それが好きでゲームをやってる。 ソーシャルゲームが流行って思ったのは、その素晴らしい体験、本質的な面白さっていうのは、きっとゲーミフィケーションとは別に存在するんだろうなってこと。

だから、ソーシャルゲームの凄さをゲーミフィケーションで語られると、1人の社会人から見てビジネスとして凄いと思う一方、1人のゲーム好きとしてはそこをゲームって言わないでくれと思ってしまう。


本質的な面白さがないモノに対して不用意に熱中させてしまうゲーミフィケーションは、使う対象を考えないと結構危ないように思う。勉強が楽しくなるとか、病院のリハビリがやりたくなるとか、そういう方向は良いけど、後になって後悔するような時間や金の使い方をさせるようなものは好ましくない。その行き着く先にギャンブルがある。

そういう点では、皮肉にも、ゲーミフィケーションって実はゲームと相性が悪いものだと思う。この”悪い”っていうのは相性が良過ぎて悪いという意味。

何かの記事でどこかの会社(任天堂だっけ?)が言ってた、「面白いゲームをつくりたいけれど、子どもがそのゲームばかりやるようになってはいけない」という話。娯楽を創る人には心の片隅にその感覚を持っていて欲しいと思う。もちろん、ゲーム会社は慈善事業ではなく利益を出さなければ継続できないのだけど。

可能であれば、将来的にソーシャルゲームで得た人を熱中させるノウハウを、ゲーム以外のことに使っていくような方向になると良いなぁと思う。それが残された希望。


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